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マウゼル教に敵意を持つ人たちが集まって偽の廃棄王女を崇めている隠れ里にまぎれこんでしまった三兄妹。おまけに里は魔法によって外界と閉ざされ、三人は出られなくなってしまう。そんな中、里人たちによる不気味な儀式がはじまろうとしていた…。
脚本 名田 寛
絵コンテ 森岡 博
演出 橋本 昌和
作画監督 後藤 潤二
「すてプリ」という作品の持つテーマが色濃く打ち出された回である。この回のゲストであるエルフィティーネ、レナード、ベルケンス、そして“隠れ里”の人々と、パシフィカたちカスール三姉兄妹。それぞれが何を信じているのか。誰を信じているのか。それを頭に入れて見ると、視聴者の皆さん一人一人の中で、新たな発見があるのではないだろうか。
前にも書いた通り、「すてプリ」という作品は様々な側面を持ち、そのすべてをこのコラムだけで論じる事は出来ない。今回は「信じる」という行為について着眼してみよう。
まず興味深いのが、「マウゼル教の異教検察官」という、ある意味、最も「信じる」という行為に対して融通が聴かなそうなベルケンスが、非常にニュートラルな考えの持ち主である事だ。彼は「マウゼルもブラウニンもなくたっていいんだよ」と言い切る。だが、「何かを信じなきゃ生きていけない」という人間の弱さも理解している。彼が主張するのは、「自分の信じているものと違うものを信じているからって潰すのはおかしい」という一点である。
これは現代に生きる我々にとっても耳の痛い言葉であると同時に、「言葉だけのキレイ事」としては、万人が理解している事でもある。このベルケンスの言葉に、シャノンが即効で「それはお前らがやってきた事じゃないか」と言い返したように、言葉で理解していても、誰も実現は出来ていない。決して世界から宗教戦争はなくならないし、宗教以外でも「信じるものの違いによる諍い」もこの世から無くならないのだ。 だがベルケンスは言い返す。「だから止めたいんだよ。マウゼル教会と同じあやまちを繰り返すのを」と。この言葉を聞いたシャノンは、「あんたの言ってる事が正しいと思ってる訳じゃねぇぞ」と言いつつも、ベルケンスが“隠れ里”の崩壊を阻止しようとするのに協力する。
本編中の台詞の引用が多くて恐縮だが、この二人のやり取りが何を意味するのか。それは「“信じる”という行為には、“信じた側”の責任が伴う」という事実である。 世間一般のイメージとして、「信じる」という行為には、「信じた側ではなく、信じられた側」の責任が大きいように思われている。多くの「信者(宗教的な意味にとどまらず)」を集めてた人が不祥事や犯罪を起こした場合、信じていた人々は「あの人を信じていたのに・・・」「あの人に騙された」みたいな事を言う。もちろん「信じてもらった側」には、「信じた側」に多大なる影響を与えるという社会的責任が伴うが、「信じた側」も、決して責任から逃れる事は出来ないのだ。
人はなぜ、他者を信じるのか。それには様々な理由があるが、大きな理由の一つとして「自分の責任を放棄できるから」というのがあると思う。人はよく「自分の好きなように生きたい」「何者にも縛られずに生きたい」という。だが実際、社会生活の中で「好きなように生きた」場合。それにともなう責任は、すべて自分が背負わなければならないのだ。
これは卑近な例だが、親の反対を聞かずに好きな人と結婚した。先生の推薦に従わず、好きな会社に就職した。そしてうまくいけばいいが、万が一、うまくいかなかった時・・・。「だって、自分で決めた事でしょ」と言われ、誰も助けてくれない。自分で選択した以上、自分でなんとかしなくてはならないのだ。人は別に宗教に限らずとも、「この仲人さんの紹介だから結婚しても大丈夫」とか、「あの先生がいい仕事だ、っていったからこの会社に就職する」というように、「信じる事による自己責任の軽減、もしくは放棄」を日常生活の中で頻繁に行っているのだ。
人の意見を聞かず自分の意思だけで行動しても、自分の考えを放棄し、まるっきり他人に従っても、人間は生きてはいけない。他人の意見をどこまで取り入れるのか。自分の意思をどこまで通すのか・・・。それが“自分の頭で考える”という事であり、そして出された結論には“責任が伴う”のだ。
パシフィカに「あなたは本当に廃棄王女なの?」と問われたエルフィティーネは言う。 「だって・・・。レナード様がそう言ったから・・・」 この時点で、エルフィティーネは“自分で考える事”すなわち“自分で責任を負うこと”を放棄している。未来を透視する事ができ、人々から神として崇められているエルフィティーネが、である。
そんなエルフィティーネだが、レナードが里を壊滅させるという真相を明かし、自分に刃を向けた時。それでも彼を信じると言い放ち、命を賭して里へ戻ると主張する。「里の人たちは私を信じてついて来てくれました。だから私は里へ戻ります」と「信じられた側」の責任を口にしているが、これは同時にレナードを“信じた”ことに対する責任でもあったのだ。そしてこれは、今までレナードの傀儡だった彼女が、初めて「自分の頭で考えた」ことでもあったのだ。
それを考えると、一見、いいかげんなようなベルケンスの行動にも納得がいく。彼は別にマウゼル神や教会に逆らっている訳ではなく、自分で考え、自分で責任を取る道を常に選んでいるだけなのだ。隠れ里の存在をマウゼル教会に教えても、聖都グレンデルの壊滅計画を放って逃げ出しても、レナードに従って里の壊滅を見過ごしても、それは自分の考えと責任を放棄した事になる。「オレはイヤだけど、神様がやれっていうんだから仕方ない」という考えではなく、「オレはこの選択がベストだと思うが、もし神様が許さないっていうんなら、そのせいで地獄に行っても仕方ないわな」・・・。それがベルケンスの考えではないだろうか。
「信じる事の責任」についての話が長くなってしまったが、この話ではパシフィカにも注目して欲しい。前述の、エルフィティーネに「あなたは廃棄王女なの?」と質問し答えを得た時や、エルフィティーネが「自分は廃棄王女ではない」と告白した時の、パシフィカの表情・・・。もし、本当にエルフィティーネが廃棄王女だったら。必然的にパシフィカは廃棄王女ではない事になり、背負っている宿命の重荷から解放されるのだ。里が壊滅から救われ、エルフィティーネがやり直す事を決意したハッピーエンド。だがその幸せは、パシフィカの「やっぱり自分は廃棄王女だった」という苦しみの上に成り立っている。だがパシフィカは、そんな苦悩を決してエルフィティーネたちには告げない。それが彼女の強さであり、我々はそんな彼女に魅かれるのだ。
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